今日ねこ。:「呼んだ?」
「わし?」
今日は、私の母ちゃんの誕生日なので、お祝いに母ちゃんの好きなどら猫をたくさんアップします。
聞き返し猫の写真は、カメラを構えるとだいたいこんな感じで振り返るので、たくさんあります。「呼んだ?」と。
「呼んだ?」
「呼んだ?」
「なに?」
「呼んだ?」
「呼んだ?」
「ん?」
「呼んだ?」
マイケル「うにゃ?」
「呼んだ…?」
「呼んだ?」
「呼んだ?」
「呼んだ?」
「なにか?」
「呼んだ?」
「はい?」
「呼んだ?」
「呼んだ?」
「うにゃ?」
前回へのコメント、ちびさんありがとうございます。
猫に対して私のしていることは、自分勝手に、ただ写真を撮り、話しかけることだけです。
猫問題は人間社会の真ん中で起こることだから、かなり複雑で大きな問題ですね。今のところ私のスタンスは、大きく言ってみると、この星の上で起こることすべて、自然の行為だと想うことから考えようとしています。人の行うことも、猫の選択も、ついでに、多くの生き物が繰り返す争いも、幸せも。いろいろな立場によって、正しくも、間違ってもいる。なんだか、とてもジレンマなことです。
ただ私は、せっかく「人」という「ジレンマを悔しいと思う」ことが出来る存在として生まれた仲間の一人なのだから、出来るならこうであればいいなと思うんです。何かに対し嫌だと思う生き物や物体が、「自然として」悔しいと声を上げたことを、多くの人が聞いて、理解しようと頑張る。なぜか。自分が悔しい時には、やっぱりだれかに頑張って聞いてもらいたいから。せめて、聞いてもらいたいから。地球の叫びも、動物の叫びも、小さな人間の叫びも、同じ自然という環境に生きるものとして、懸命に。
もちろん、多くの自然と同じように、出来ることは出来て、出来ないことは出来ない。当たり前に出来ないことは多いし、でもそれすらも善悪ではない。二極化出来ることではない。エゴもあるし、責任に対する怠惰や、恐れもある。悔しい。ただ、そこでストップするのでなく、心に引っかかり続ける限り、考え続ける。…そう言えばそんなことを「きみのカケラ」の構成作業をやりながら改めて思ったりしました。なんだかイコロ的考え法ですね。二極化の考え方や解決策はらくちんだけど、太古の昔からそこに得られる進歩は人類や命にとってコスト高で鈍重な感じがします。
…話がそれましたが、そういった考え続けるという行為の先に、もしかしたらちびさんの見た青年の行為があり、しかし彼はそこで終わりではなく、また継続して考え続ける選択をしたのだと思います。小さな自然に対して、やはり小さな自然が出来ることの意味や、責任を、いまごろその人なりのペースでゆっくり懸命に考えていてくれると嬉しいなと思います。
私などは野良猫達に対して、写真を撮り、話しかけることだけしか、まだ出来ないんです。ただ、「どうしたの?」と。
「…わし?」
…すいません。仕事します。
しん
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